前回の記事で触れましたが、2月度の「『ホワイトマジック』をグリーフの視点から読む会」平日組では、『ホワイトマジック』の内容そのものではなく、各自のグリーフについての話に大きな花が咲きました。
私からみなさんへの投げかけは、こんな感じでした。
5月にスタートしたこの会で『ホワイトマジック』をゆっくりと読み進めてきたわけですが、『ホワイトマジック』の内容、もしくはアートマ・クリヤ・ヨーガを通して過去を振り返り、「自分がグリーフから一歩踏み出したのはこういうことが自分の内部で起きていたからなのでは?」ということをシェアしてみましょう。
各自のシェアに参加者それぞれが思いを馳せ、とてもとても大切な時間が流れました。
こういう時間こそ、この会の醍醐味なのです!
シェアして頂いた個人的な経験の内容については会の外には持ち出さない前提なので、心に響いたあれこれを、残念ながらここでお伝えすることはできません。
ですので、私自身が話した内容のひとつをシェアさせて頂きます。
いくつか、というかいくつもあるグリーフの中で、長男との死別のお話です。
あやふやなのですが、たしか荼毘に付した後、初七日までの間だったと思います。
何がなんだかわからない慟哭の中、ふと、強烈に感じた…というか降りてきたことがあるのです。
「彼の気の遠くなるような再生誕の繰り返しの中で、私は今生の母親としての役割を与えられたんだ。
この役割において、過去世のお母さんたちの溢れんばかりの思いをしっかりと受け継ぐことができたのだろうか。」
もちろん同じ人格のまま転生していくわけでないことは承知の上でしたが、それでもなんとも言えない感慨深さがありました。
足もとを見ると、私は次の1秒を生き切れるだろうか…そんな心もとなさに本当に本当に溺れそうになるのですが、悠久の時の流れを俯瞰し、「長男は、今生、私が預かったに過ぎなかった」という思いのもとになんとか浮上してくる。
強烈に感じた、強烈に降りてきたこの思いが、私が自分のグリーフの道を自分の足で踏み出す起爆剤になったのは確かです。
この起爆剤のおかげで、少しずつ少しずつベクトルを故人から自分に転回することができたのだと思います。
このベクトルの転回が、今生において彼に対しての、そして自分自身に対しての、精一杯最大の愛の形であった…今もそう感じます。
息子の死を前に、ある意味で非常に冷徹で厳しい表現ですが、それは大きな大きな「執着の解放」だったわけです。
何が起爆剤になるのかは人それぞれです。
圧倒的な何か、強烈な何か。
私のように突然降りてきた思いかもしれませんし、何らかの経験かもしれません。
何にせよ、それが背中をドンっと押してくれることは確かでしょう。
みなさんにもそのような「何か」があるのではないでしょうか。
今日は再生誕のお話に触れたので、このブログで初めて登場する書籍の中から関係個所をご紹介させて頂きます。
アリス・ベイリー著、石川道子訳『キリストの再臨』有限会社シェア・ジャパン出版、1997年。
第5章キリストの教え、168~170頁より。
もしキリストが正しい人間関係の目標を普遍的に教えるとすれば、彼の教えの重点は再生誕の法則におかれなければならない。これは必然的にそうである。なぜなら人類のすべての問題の解決と人間の疑問の多くに対する答えは、この法則を認識する中に見い出されるのであるから。
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今回、キリストはこの可能性を確立された事実とするための方法を人間に教えるであろうー転生する魂が地上における人生の学校に絶えず戻って来ることを通して、そこで完成への過程を辿る。キリストはそのすぐれた模範であった。これが転生の意味であり教えである。
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殆どすべてのオカルトのグループやオカルトの書物は、おろかにも過去の転生とそれの記憶回復に力を入れてきたことを記憶すべきである。この回復を合理的にチェックすることは不可能である― 誰でも好きなことを言い好きな主張をすることができる。教えは虚構の規則の上に置かれ、それが時間の差と転生と転生との間隔を支配することになっている。時間が人間の頭脳の意識の働きであり、頭脳から離れて時間は存在しないことを忘れてしまっている。いつも架空の関係の紹介について強調が置かれてきた。(これまで与えられてきた輪廻転生の)教えは、益よりも害を多く及ぼしてきた。たった一つの要素だけ価値があった― 生命再生誕の法則が多くの者によって論議され、何千人もがこれを受け入れているということ。
再生誕の法則がこの地上における正しい人間関係の目標に明確に寄与するということ。
身に沁みる言葉です。
そして、グリーフという道を歩む上で、非常に大切な言葉です。
みなさん、今日も素敵な一日をお過ごし下さい!
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